今なら、あの言葉の意味が少しわかる。
「自分がないよね。」
18歳の頃、友人に言われたその一言は、今でも忘れられない。
だって、あの頃の私にも、”ちゃんと自分はあった” から。
でも、大人になった今なら、
友人がそう感じた理由が少しだけ分かる気がする。
「みんなと一緒」が心地よかった。
学生時代の私は、「みんなと一緒」で良かった。
個性がないと言われたら、そうだったかもしれない。
クラスで流行っているアイドル。
「剛派?光一派?」
そう聞かれても、本当はどっちでもよかった。
話題になっているテレビ番組も、特別見たかったわけじゃない。
それでも、みんなが見ているなら私も見る。
話についていけるように。

その時間が嫌だったわけじゃない。
「私が少し合わせれば、それでいい。」
そう思っていた。
だから、「自分がないよね」と言われたときは、本当に意味が分からなかった。
「私はあるけど。ただ、合わせてるだけだし。」
それが、そのときの正直な気持ちだった。
ハワイで見た、今まで知らなかった世界。
その言葉を思い出したのは、ハワイへ留学していた頃だった。
授業で、アメリカ人のクラスメイトとグループワークをする機会があった。
プレゼンのテーマを決めるだけなのに、チャットは大混乱。
「私はこっちの方向で進めたい。」
「いや、それよりこっち。」
「私はその案はやりたくない。」
次から次へと意見が飛び交う。
もはや私には、喧嘩しているようにしか見えなかった。

私は画面を見ながら、
「え、大丈夫? こんなんじゃ絶対まとまらないじゃん。」
そう思っていた。
しまいには、「あなたはどっちの味方なの?」と聞かれて、
「お願いだから巻き込まないで……。」
そんな気持ちだったのを今でも覚えている。
日本で育った私には、とても衝撃的な光景だった。
「こんな世界があるんだ。みんな、自分を出しすぎ。」
それが、一番素直な感想だった。
でも、それと同時に、少しだけ羨ましいとも思った。
自分の考えを、あんなにはっきり伝えられること。
相手と違う意見を言うことを、怖がっていないこと。
「かっこいいな。」
気づけば、そんなふうにも思っていた。
「終わった…」と思ったのに。
私は、このグループはまとまらないと思っていた。
でも、不思議だった。
気づけば、一つの方向にまとまっていた。
そして出来上がったものは、
一人では思いつかないような、とても面白いものだった。
今でも思う。
「あれは、何でうまくいったんだろう。」
あのとき何が起きていたのか、今でもうまく説明できない。

でも、一つだけ確かなことがある。
相手と違う自分の考えを伝えることと、人間関係が壊れることは、必ずしも同じではない。
そんな世界があることを、私はハワイで初めて知った。
今なら、少しだけ分かる。
あの頃の私は、自分がなかったわけじゃない。
ただ、自分の考えや気持ちを外に出していなかった。
「私が合わせれば丸く収まる。」
そんな場面が、きっとたくさんあった。
だから周りから見ると、
「何を考えている人なのか分からない。」
そんなふうに映っていたのかもしれない。
今なら、友人の言葉をそんなふうに受け止めている。
あの頃の私へ。
そんなにしっかりとした軸はなかったかもしれない。
でも、あの頃の私にも、確かに自分はあった。
だから、「自分がないよね」と言われたときは悔しかった。
ただ、あえて伝えていなかっただけなのに。
全部を伝える必要はない。
全部を分かってもらおうとしなくてもいい。

でも、自分の気持ちを少しずつ言葉にしていくことで、周りの人は少しずつ「あなた」という人を知っていく。
そして、自分も、誰かに合わせて居場所をつくるのではなく、自分らしくその場所にいられるようになる。
自分を大切にしながら、相手も大切にする。
そんな関わり方は、一日で身につくものではないのかもしれない。
あの日、「自分がないよね」と言われた私も、少しずつ自分を伝えられるようになった。
今ある自分を、少しずつ誰かに伝えていく。
その積み重ねが、「自分らしく生きる」ということにつながっていくのだと思う。
